The Japan Society
Publications Books & Journals The Japan Society Review

Kairakutei Burakku

Kairakutei Burakku

Kairakutei Burakku (快楽亭ブラック)
By Ian McArthur (イアン・マッカーサー著)
内藤誠、堀内久美子 共訳
Kodansha International (講談社) (1992)
317 pages
ISBN: 4-06-205738-7

井上敦子

モーツァルトがまったく無名だった当時の有名な音楽家は宮廷楽長のサリエリだった。けれども今、サリエリの名前はモーツァルトと比べるとほとんど人の口にのぼることはない。

ご存じですか、快楽亭ブラックのことを・・・・。ではじまるカヴァの見返し部分の紹介文を読んで先ず思い浮かんだのがこれだった。

青い目の落語家、ヘンリーブラックのよきライバルとされていたのが三遊亭円朝だった。お互いに切磋琢磨して天下の人気を二分したとあるが、三遊亭円朝はいまだに三遊亭の一派が脈々と続いている中で確固とした地位を占めている。かたや快楽亭と言う名を私は聞いたことが一度もない。

今では相当な数にのぼる外人タレントのはしりだろうか。アジア系以外の外国人が日本語を流暢に話してくれるときの驚きと面はゆいような嬉しさを感じさせる何かが私たちのDNAにはいまだに確実に ある。当時の日本人の反応はいかばかりだったろうかと想像するだけでもこの「青い目の落語家」という肩書は興味を引いた。

物語はヘンリーの父が日本に来るようになったいきさつからヘンリーと日本語の関わり、落語家になるようなった経緯、人生の上り下りを当時の時代まで含めて描いている。

彼の活躍は創作落語を含む高座だけにとどまらず楽隊を率いてのエンターティナー、翻訳、通訳、催眠術、歌舞伎役者、英語教師、記者、日本で初のレコード制作にも関わってちゃっかりと自分の落語をたっぷりとレコードに吹き込んでいる。このレコードは100年前の日本語の話し言葉のイントネーションを研究する上での貴重な資料となる。

しかし落語家として名を成すようになればなるほど家族とは疎遠になった。「河原乞食」などと言う言葉はもう死語で、外人タレントは現代ではひっぱりだこだが、100年前なら日本人も今とは違っていただろう。ヘンリーの兄弟がそのことを感じなかったわけはないと思う。歩いて10分、15分くらいの距離に住んでいながら会おうともせず母親の死も知らせなかった妹、神戸で実業家になってはいたが、ヘンリーの高座を大声で罵倒妨害した弟。本当の家族を持てなかったヘンリーにとっては哀切極まりない事実だ。

こういった様々な暗い逸話の一方でヘンリーは日本を深く理解し幅広い交友関係でいろどりある人生を歩むことができたのではないか。ぜひそうであってほしいと思う。

Editor’s note:
Henry James Black was born in Adelaide, Australia on 22 December 1858. Due to his father’s work he lived in Japan from the age of three. He worked as an English teacher for about a decade before becoming a rakugoka [落語家], or Japanese style public storyteller. He performed under the name Kairakutei Black [快楽亭ブラック], which he adopted in March 1891. He also had a stint as a kabuki actor. Black eventually took Japanese nationality, taking on the Japanese name Black Ishii [石井 貎刺屈]. He received his Japanese name by being adopted by Mine Ishii, a sweet shop owner whose daughter, Aka, Black married. He died of a stroke on 19 September 1923 at the age of 64 and is buried in Yokohama Foreign Cemetery.